花の木窯と小山冨士夫展開催の思い出

佐野素子(岐阜県現代陶芸美術館学芸員)

 最近、といっても実際にはしばらく前からのことらしいが、昭和4年に刊行され、プロレタリア文学の代表作ともいわれる小林多喜二著『蟹工船』が注目されているようだ。確かに本屋では文庫コーナーの目立つ場所に並べられているのを見かける。そして同書が現代のワーキングプアの問題と重ねられ、とくに若者の共感を得ているとの記事をみた。これを読んだとき、小山冨士夫氏も蟹工船に乗船していたことを思い出した。1923年(大正12年)23歳の頃のことである。東京商科大学予科(現、一橋大学)在籍中に社会主義運動に共鳴して大学を中退した小山氏は、その年の6月、函館からカムチャッカ行きの蟹工船に乗り込み3ヶ月ほど働いている。語学力を見込まれて通訳めいたこともさせられていたという話である。また船の上では文字通り過酷な労働が待っていたが、スポーツで鍛えられた小山氏の腕力は意外にも強く、腕相撲ではロシアの大男も相手にならなかったらしい。

 さて、岐阜県現代陶芸美術館では平成15年12月20日から平成16年3月21日まで「陶の詩人 小山冨士夫の眼と技」展を開催した。この展覧会は、中国の定窯窯址の発見をはじめ日本中世の六古窯の研究や正倉院蔵の奈良三彩の調査など陶磁史研究において様々な功績を残し、また自ら作陶も行った小山冨士夫氏を眼・技・交友の視点から紹介したものであった。古陶磁研究に限らず、小山氏は文化財保護委員として国宝・文化財指定の業務に従事したり、いわゆる人間国宝の制度の創設など文化財行政の骨格を作り上げるのに大きな役割を果たしてもいる。日本で初めての国際陶芸展ともなった1964年の『現代国際陶芸展』が開催されるにあたっては、欧米を中心に各国の陶芸作家を訪れて調査し、出品候補作品を選んでいる。古陶磁から現代陶芸まで、時代、地域を問わず非常に広い範囲の活動でやきものの普及と発展に尽くした人物といえよう。その小山氏が晩年を過ごしたのが花の木窯であり、当館にとっては地元にゆかりある人物として、一層力の入った展覧会となった。
 当館から土岐市にある花の木窯へは車で20分程度だっただろうか。開催準備の調査ために花の木窯まで何度も通ったことを思い出す。丁度、冨士夫氏の長男・岑一氏が花の木窯へ居を移された時期にも重なり、岑一氏には開催前そして開催中と大変なご協力をいただいた。そのお陰で、当館会場では他の巡回会場で紹介された展示内容に加えて「小山冨士夫愛蔵 石黒宗麿コレクション」「小山冨士夫ぐいのみコレクション」「海外陶芸と小山冨士夫」「小山冨士夫収集陶片」といった4つのテーマでオリジナルの展示を加えることができた。とくに「ぐいのみコレクション」と「海外陶芸と小山冨士夫」の展示については、作品はいずれも小品ながら、小山氏のその交友の広さを伝えてくれたと思う。ぐいのみといえば、小山氏は若い頃はほとんど飲まれなかったようだが、後にはお酒が大好きになられたということで、酒宴では声量豊かににイタリアの楽曲を歌い上げていたといった話など、多くの楽しいエピソードがあったようである。そうした素顔の話を聞くときにいつも感じたのは、小山氏がいかに周囲の人を惹きつける、人間的魅力溢れた人物であったかということだった。小山氏の話を聞くたびに、筆者もぜひ一度お会いしてみたかったと思う。

 小山氏は1900年に岡山県で生まれているが、4歳の頃には家族と共に東京・麻布に転居している。小山家は祖父の代からキリスト教徒であり、小山も日曜学校へ通うなかこの頃クエーカー教徒としての洗礼を受けている。小山氏がやきものに関心を持つようになったのは、先の蟹工船を下船したあと、近衛歩兵第三連隊に1年志願兵として入隊し、そこで出会った同僚の岡部長世氏の影響だったという話である。除隊後、上野の図書館に通いやきものに関する書物を読破していくなかで、やきものを知るためには実際に作陶してみることだと思い立ち、瀬戸の矢野陶々氏、その後に京都の二代真清水蔵六氏のもとへ弟子入りし、学んでいる。当時のスケッチ帳には、やきもののデッサンや窯詰めの図などまでが細かく、そして丁寧に描き込まれている。その後、京都の蛇ヶ谷(現、京都市東区今熊野南日吉町)に家を借りて作陶を始めるが、1930年、作陶の生活を一度断念して、東京にもどり陶磁史研究者への道を歩むのである。ただし全く作らなくなったわけではなく、忙しい中でも、日本各地の窯場を訪れては作陶に取り組んでいたようだ。1947年には当時住んでいた鎌倉の覚園寺の寺内に築窯し、翌春初窯を焚いている。小山氏が再び作陶生活に力をいれるようになったのは、「永仁」銘の灰釉瓶子が鎌倉時代の古瀬戸として重要文化財に指定され、その後それが贋作であったことが発覚した「永仁の壺事件」により、1961年に文化財保護委員会事務局を辞職して以降のこととされる。1966年、岑一氏と鎌倉の自宅の庭に「永福窯」を築窯。そして1972年11月土岐市五斗蒔に花の木窯を築き、転居してきたのは翌1973年のことであった。

 自ら「窯場あらし」と呼んでいたように、各地の窯場を訪れて作陶をした小山氏の作品は白釉、種子島、柿釉、青白磁等々、土、釉薬など様々である。そしてその作陶において大事にしていたことの一つには轆轤のスピードがあったようだ。轆轤に据えた土から一気に形がきめられ、茶碗やぐいのみなども短時間のうちにも非常に沢山の数が挽きだされたという。いうまでもなくやきものに精通していた小山氏であったが、その作品は知識で縛ることなく実に自由で個性的なものであって、そしてやきものというものへの小山氏の深い思いがあふれている。
 小山氏が花の木窯を築窯し、そこに住まれるようになったのは亡くなる2~3年前のことであり、最晩年の時期を過ごした場所といえる。わずか数年間であったとはいえ、ここでも数々の作品が生まれた。そしてまた、多くの人が小山氏に会いに訪れたに違いない。その場所が2006年3月に岑一氏が亡くなられたあと土岐市に寄贈され、このたびaimの展示会場として、再びやきものとの出会いの場になるという。この新しい試みのなかで何が生まれてくるのか楽しみとしたい。

Posted by 高橋 綾子

小山冨士夫と花の木窯

           林順一(土岐市教育委員会 文化振興課    


五斗蒔のハナノキ

泉町久尻の陶芸村の旧小山冨士夫宅のすぐ裏に流れる小川の岸に根元が洗われるところにハナノキの大木が生育している。昭和51123日に「五斗蒔のハナノキ」として市の天然記念物に指定された際は、高さ15m以上、目通り周囲2.8mで、現在は、さらに大きく成長している。ハナノキはカエデ科の落葉高木で、長野県の一部、岐阜県、愛知県、滋賀県など限られた地域にのみ分布している。特に木曽川水系から庄内川水系に多く、岐阜県の東濃地方には広い範囲で分布が確認されているが、全国的には極めて分布域が限定された希少な植物で、環境省のレッドデータブックでは、絶滅危惧種Ⅱ類に位置づけられている。氷河期前から生育している化石植物で、シデコブシなどとともに「生きている化石」といわれている。雌雄異株で、春先の3月下旬から4月上旬に葉に先立って深紅色の花が一斉に開花し、秋には葉が赤や黄に鮮やかに紅葉する。春先の開花の様子は鮮やかで印象的なため、ハナノキという名の由来になったという。


小山冨士夫と二宮安徳

小山冨士夫と元土岐市長二宮安徳、このふたりの関係が、実際にいつから個人的な交友に発展したかは定かではないが、二宮は、昭和42年、濱田庄司の案内で出光コレクションを見学した際小山冨士夫に会っているとの記録があり、それ以降の交友であろう。小山は、戦後、文化庁の文化財保護委員会事務局に在籍し、永仁の壺事件をきっかけに昭和36年に辞任するまで、無形文化財(人間国宝)の認定にかかわってきた。その後、作陶活動を再開した小山は、自ら「窯場あらし」と称して全国の窯場を廻って作陶を繰り返し、塚本快示の快山窯にも頻繁に作陶に訪れているので、土岐市を訪れる機会はかなり多かった。小山と塚本や荒川豊蔵などとの交友を通して、二宮との関係が深まっていたと思われる。二宮は陶芸村を開村するにあたって、小山を陶芸村へ招き、昭和4711月に土岐市に花の木窯を築窯している。



小山冨士夫と花の木窯

小山冨士夫が陶芸村の現在の位置に工房を築くことを決めたのが、ハナノキの巨木の存在だった。それゆえ、居宅をハナノキの間近に定め、大きなガラス張りにした風呂場から四季の彩り豊かなハナノキをゆったりと楽しむような間取りとしている。窯名を「花の木窯」としたのも、このハナノキに由来する。窯開きには、荒川豊蔵や中里太郎右衛門等の陶芸関係の名士多数が集まり、荒川豊蔵の槌で鏡開きが行われたと二宮安徳は「市長の手帖」に記している。



小山冨士夫と塚本快示

製陶業を営む家系に生まれた塚本快示(19121990)は、小山冨士夫の著書「影青記」を読んで感銘を受け、青白磁の研究を始めるきっかけになった。戦後、小山に会うため頻繁に鎌倉を訪ねた塚本に、小山は影青の陶片を与えて励ましたという。塚本は、昭和3637年頃には一応満足の行く作品ができて日本伝統工芸展へ出品した後、同展への出品を重ね、昭和44年には日本伝統工芸展の鑑査委員に就任している。小山は、昭和39年の自作展開催の前に塚本の快山窯を訪れて白磁や青白磁を作陶するなど、頻繁に快山窯を訪れている。塚本は小山が土岐市へ移住した翌年の昭和48年には土岐市無形文化財に続いて岐阜県重要無形文化財に認定され、後に人間国宝に認定されている。


小山冨士夫と荒川豊蔵

京都の宮永東山の窯で働く荒川豊蔵(18941985)は、大正15年に星岡茶寮を始めるにあたり東山の窯に食器を作りにきた魯山人とともに真清水蔵六を訪ねた際、弟子入りして間もない小山冨士夫と初めて出会い、その後、小山が蛇ヶ谷で独立した頃にも古陶磁研究会でも時々出会ったという。その後、小山が東京に移ってからは会う機会がなかったが、昭和8年に大萱に移住した豊蔵を、30回以上も訪れている。戦後、日本陶磁振興会ができ、荒川や石黒宗麿、日根野作三ともに理事となった小山は、毎月瀬戸や美濃へ来るようになり、荒川とも頻繁に会うようになった。小山が花の木窯を築いてからは、「時々あってのめるので楽しみ」と豊蔵は小山の作陶十年図録に書いている。



小山冨士夫と種子島焼

種子島には幕末に擂鉢や甕を作っていた能野(よきの)焼があり、その復興協力を種子島出身の山本秀雄から懇願された小山は、その熱意に動かされ、中里無庵の五男の中里隆に築窯作陶担当の陶芸家として依頼。昭和46年に種子島を訪れ、間仕切りのない蛇窯を築窯。翌年焼成を行った際に、台風による飛行機・船の欠航の影響を受けた取材にあわせるため、窯焚きを1日延ばさなくてはならない事態となった。とっさの思いつきで温度を抑えるために焼成中の窯内に水を投げ込んだところ、面白い窯変のものが焼きあがったというエピソードがある。その後、土岐市に花の木窯を築窯する際にも、火度が強くない種子島の土を使って「種子島焼」を焼成するため、この経験を応用して、窯焚きの終わり頃に窯床の下に仕込んだパイプから水を噴出させる構造としている。



陶芸村構想と陶芸村の整備

いつ頃から二宮安徳の頭の中に、陶芸村構想が芽生えたのかは定かではないが、益子焼への関心は昭和32年頃からという。昭和37年の市長の手記に「二三年前に、東京に出る陶器の民芸品の半分は益子焼であるという事実を知って私は深い感銘を受けた。駄知の半分にも足らないこの益子が、常に業界発展に努力し、・・・中略・・・飛躍的の発展に努力している意欲は、我々の学ぶべきところだと思う。」とあり、益子焼の成功を取り入れたいという思いが、益子焼産地との交流、益子焼成功の立役者としての濱田庄司との交友につながっていくとともに、美濃で陶芸を活性化させようとする強い意志に育っていったのであろう。二宮市長時代の昭和46年に発表された「美濃陶芸村基本構想」は、伝統工芸・近代工芸の保護・育成と歴史的文化遺産の保存・公開によるPRをとおして美濃焼産業の一層の振興を図ることを目的として策定されたもので、昭和48年度にかけて道路や河川改修が行われた。入村希望者の受付は、昭和4710月に行われ、最初の入村者の決定は、翌年3月に行われているが、小山冨士夫の入村は、昭和4711月で、昭和39年から一の沢窯を築いていた永江港史と同じように、後からの追認だったと思われる。さらに、二宮が土岐市政から退いた後の昭和53年、美濃焼が通産省によって伝統的工芸品として指定されたことを契機に、昭和56年には美濃焼伝統産業会館を開館させて美濃焼伝統工芸品組合の拠点とし、志野を焼成した高根窯沢窯跡の発掘を発掘し、志野の里公園として整備し、昭和58年に陶芸村が完成している。

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Posted by 高橋 綾子