森北氏のブログを読んでいて
自分だったらいったい何をして食っていきたいかと考えたら
自分で野菜や果物、穀物を栽培して、採集して
食っていきたいと思った。
(これがまた大変なのだが、、、)
現在の日本は食糧自給率40パーセント。
自分の食料自給率は1パーセントもないだろう。
自分で自分の食べるものを育てたり採集できないなんて、
「生き物」として一人前じゃないんじゃないか?と思ってしまう。
鳥でも魚でもだれでもそうやって生きているのに。
動植物の生活は大地の無尽蔵な生産力に依存しているから
安定しているのに対して
われわれは経済と石油エネルギーという
とても不安定な持続性のないものに依存して生きている。
アニメ「天空の城ラピュタ」の中でシータが
「人は土を離れては生きていけないのよ」というところが
あるけれど、
現代の社会はまさに「天空の城ラピュタ」だ。
強大な軍事力と経済という名の「飛行石」で
土から離れ、天空にふわふわと浮かんでいる。
ムスカ大佐がシータに
「君はラピュタを宝の島か何かとでも思っているのかね?」
と聞くところがあるけれど、
ぼくらはこの社会を
いまだに宝の島だと思っているのかもしれない。
強大な軍事と経済、石油エネルギーによって
大地から隔離されて
ふわふわと浮かんでいるこのラピュタのような社会に、
僕らはいつまでしがみついているのだろう。
石油エネルギーという「飛行石」の力は
だんだん弱くなっているというのに。
畑や森で仕事をしていると
放っておくと木は生い茂り雑草がどんどんはびこって
すべのものはどんどんカオスの状態になってゆく。
でもほうっておくとどうしようもなくなるから
ひたすら草取りなどをするのだけれど、
まったく際限のない作業のようにも思えてくる。
でもそれをやらねばならないし、
それをやりたいという気持ちもある。
エントロピー増大の法則によれば
この宇宙の拡大期にあってはあらゆるものは拡散して
やがてはエネルギーの平衡状態になって
安定して動きがとまる。
水をはった水槽の中にボトルからインクをこぼすと
どんどん拡散していってやがては拡散しきって
カオスの状態、飽和状態になってその拡散の運動は終わる。
この動きは不可逆的なもので
拡散してしまったインクを集めて
もとのボトルに戻すことはできない。
また冷たい水とお湯を混ぜるとやがては混ざりきって
ちょうど中くらいの温度になって止まる。
部屋もかたづけないとどんどん乱雑になってゆくし、
野原だって放っておくとどんどん雑草が生い茂る。
人間の記憶も時間がたつどどんどん曖昧になり、
人間関係だって放ったらかしにしておくと
だんだん希薄になってやがて解消されてしまうこともある。
家も人が住まなくなると傷み始めるという。
なにごともいつかは朽ち果ててゆく。
何かを放置しておくと、
それはそのまま現状維持され続けると思いがちだが、
われわれが生きているこの宇宙では
放置された瞬間からエントロピーの増大がはじまり、
混沌と崩壊、安定、そして死へと向かう。
世界中の創世神話が語るように、
この宇宙には拡散、安定、陰、闇、カオスへの方向性がまず存在し、
そしてそこに収縮、固形化、組織化、陽、光の方向性がもたらされ、
そしてそれら陰と陽の力が拮抗してやがて渦巻き、回転する運動がおこる。
そしてその運動の最終形態が「生命」「人間」なのだという。
人間は生まれた瞬間からひたすらエントロピーが増大する方向にむかい、
やがて安定、エネルギーの平衡状態=死を迎えるわけだけれど、
だからといってそれまで何もしないでぼんやりしているということはできない。
人間は毎日毎日なにかよかれと思うことをやっている。
この社会も放置しておいたらエントロピー増大の法則にしたがって
混沌とした混乱状態になっていくだろう。
でも人間はなんとかこの社会の秩序と組織を維持しようとしている。
それらはみな拮抗する陰陽の力の延長なのか。
混沌に拮抗するのは意思の力か?
「はじめに言葉ありき」
多治見の市之倉のあの場所は
ながい間放置された、まさにエントロピーの増大しきった場であり、
そこに鎌をふるいって雑草を刈ったり
作品を設置するために掃除をしたりすることは
そのエントロピーの増大した空間に
集約と組織化のエネルギーをもたらすことだと。
今度あの場所でカフェをやることになった。
それはさらにその方向性を加速させることだ。
しばらく市之倉に行けてないけど、
さぞまたエントロピーの増大していることだろう。
しかし一方で蒔いた種が成長し組織化も顕著になっているだろう。
なんて、ちょいと哲学してみました。
この土地はとんでもなく荒れ地だ。
ソバの芽が出た。